大人の健康遊具⑦
俺は噛ませ犬じゃねえ。 タイトルマッチの朝、計量タイム。主催者は脈を測りながら、40代最強、パウンド・フォー・パウンドに声をかけた。男の対戦相手だ。 「八月の後楽園ホール、メインマッチ、スーパーフェザー王座のH選手と組みますから。Iさんには階級を落としてもらうことになりますが、ライト級で対戦。楽しみにしていますよ」 背後で順番を待っていた男は、その場では平常心で左から右へ聞き流した。しかし、試合が終わってみれば、試合中のシーンより、このワンシーンが月日が経てば経つほど思い返す場面となった。 プロの世界戦、下馬評の低い挑戦者がマスコミを通じて王者に吐く台詞。「俺は噛ませ犬じゃねえ」。時が過ぎれば過ぎるほど身に沁みる。 「ふざけろ!この野郎」 男は独立して間もない頃、大手出版社の中年の女編集者に二年ほど仕えた。昼は撮影をし、プロラボへフィルムを出したあと、夜は大手出版社で編集、夜中はファミレスでブレスト、明け方、帰宅すればすぐ都内へとんぼ返り、撮影へ向かう。そしてまた大手町の銀行本社のオフィスのように陰気な空気が場を支配する出版社のフロアへ。 全共闘に少し遅れて高校自治会でストの真似事、男女機会均等法以前に入った女、男まさりで闘う女だった。だが、それは二回り近く下の男からすれば社内政治を意識した闘いであった。だが男は女の情念が好きであった。創る意欲が凄まじかった。時折ちらつかせるヒエラルキーに嫌悪しながらも喰らいつき、男は女と相対峙した。女には覇気と色気があった。 その女が口にした言葉が「ふざけろ!この野郎」。 「ふざけんな!この野郎」ではない。少し嘲りの微笑を浮かべながら吐いた台詞。なぜか今、男が内心、呟く言葉となっていた。なんとか女子流行りの昨今、男は女の情念が懐かしくあった。女はスナックで浅川マキの「夜が明けたら」を唱った。 男はなんとベタなと思ったが、高給取りの身であっても、独り身でキャリアを築いてきた自負と哀愁がない交ぜになっていた。男は女の音外れだが気持ちの乗ったブルースを懐かしく思った。 清掃工場の壁は刑務所を思わせる。男は、煙突を眺めながら鉄棒を握りしめる。なんだ、この壁は。「ふざけろ!この野郎」。
力が湧いてきた。 水元。