高3クラスTシャツ
母親が着て、父親が着て、私に戻る。
カッコよく見え、返してもらう。
家族が使い続けて生き長らえる部活Tシャツ、学校ジャージ。これは庶民の家庭内で連面と続く民俗学的に肯定されるべき継承と言ってよい。昭和の新民俗学。仮説として源流はもんぺにあるだろう。
担任が万智子先生だからマチコ・ロンドン。
思い出もある。
だがカッコよく見えた理由はこうだ。
90年代前半を風靡した「ミチコ・ロンドン」のオマージュはブランドそのものの記号の流行が最盛期を終え、流通過多なブランドが終末期にまとう飽和によるダサさ自体も風化したことでパクりの呪縛から解放され、憧れであれ茶化しであれ、当時ブランドを相対化したこのTシャツのほうが洒落ているのではないか、という屈折を周回した末の素直な思考回路。
私が母親、父親に続き、記号の流行の圏外に突入したこともある。
また、Tシャツというアイテム自体が記号の流行において、意味という呪縛から解放されて自由になったことにもよる。
ブランド、私、Tシャツ、三者が記号の流行の圏外に出たとき、このTシャツは内心の自由を得た。
考えてみれば、日本のブランドがユニオンジャック、ロンドンである。憧れが素直である。英国の国旗を身にまとう日本人。そういうことだ。国旗の記号の圏外には出られないが、そこまで考えると面倒臭い。
刺繍ネーム入りのジャージを母が着ている、或いは実は自分の部屋着である。そういう人もいる。それは昭和の民俗学的系譜、もったいない文化の継承。或る者にとっては何者かに対する反抗期の卒業証。或る者にとっては高度消費を“定年”した民俗服。
人間、何を着ようと恥も外聞もない。
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