ラ・フォーレバレエスタジオ「くるみ割り人形」2017.10.9.亀有リリオホール
葛飾水元のバレエ教室、ラ・フォーレバレエスタジオの発表会。
前日にホールでのリハーサルを密着撮影させていただいた。
プログラム順に、場当たり、通しリハーサル七時間。
幼児から五十代まで、それぞれ、女性が自らの身体的表現と向き合い、観客に魅せるために、内なる芸術的限界に挑む姿。総合芸術としてひとつの作品をつくる想いが伝わってくる。ゲスト、導き手にプロの男性バレエダンサー三名、先生のがなり、舞台監督の確認、あるいは親御さんの思いが交差するなか、板付きでそれぞれが自律して身体と向き合う。
そして本番当日の今夜、八列目二十番、舞台芸術に最も適した席にて鑑賞させていただく。
カメラはなし。まなこに記録する。
第一部はコンサート。「初めてのトゥシューズ」。習いたての幼女が舞台中央、真正面を向いたファーストポジションで観客の視線をひとり一身に受ける。初心、清らかな緊張、今できる限りの自らの身体表現を貫き、発表する姿。その姿を真正面に見据え、まなこが潤む。おそらく私より先達の白鳥の湖「黒鳥」もあった。彼女は内なる身体表現と日常の中でずっと闘ってきたのだろう。
皆が皆、挑んでいた。
第二部はチャイコフスキーの三大バレエの一つ、名作「くるみ割り人形」を全員で演ずる。
主人公クララからくるみ割り人形を奪おうとするハツカネズミ三匹が可愛い。小学生三人組か、愛らしい動きが何とも言えない。くるみ割り人形が凛々しい王子に変わるシーンは見事。王子はクララをお菓子の国に導き、金平糖の精たちが踊りでもてなす。それぞれが思い思いに身体表現に挑み、素晴らしい華やかな宴が繰り広げられる。
一回性の芸術に挑む、その姿が胸を打つ。
エンターテインメント化したプロフェッショナルの芸より、私にはこの日常の中から跳躍して一回性の芸術に挑む姿のほうが断然、美しく思える。
幼女、小学生、思春期、学生、大人の階段、妙齢、、、それぞれの女性の今が表現されていた。何より、男性のプロダンサーの体幹、跳躍、身体表現のポテンシャルに感動する。ボクサーのストイシズムと双璧をなすのはバレエダンサーしかいない。私の中で、ボクシング、バレエは共通項として存在している。
最後はクララが夢から覚める「儚さ」で緞帳が下りる。一抹の夢。素晴らしかった。
私は三十代前半、五年ほど、毎年、バリ島の東部の棚田、漁村へ写真を撮りにいっていた。
一時期、ウブド村で夜な夜なあちこちの寺院の境内で催されるガムラン楽団をバックにした集落ごとのレゴンダンスに魅了された。昼間は仕事に就き、夜、集落の寺院で観光客相手に伝統音楽を演奏し、伝統舞踊を踊る人々。その日常に神が宿るかのような舞踊が得も言われぬ美しさであった。
日常に神が宿るかのようなハレ舞台、今夜の「くるみ割り人形」もそうであった。
場慣れは重要だろう。だが、どんなにプロフェッショナルでも、どんなに信仰心が篤くても、バレエでもバリ舞踊でも、場慣れした芸より一回性の跳躍。そこにはプリミティブな魂の根源がある。
それにしても舞台袖は美しい。ハレとケの結界、高鳴る鼓動、しばしの安堵、此岸と彼岸。人間の身体性が切り替わる瞬間、舞台に立つことの意味は果てしなく大きい。だが、舞台袖はそれ以上に魅了される世界だ。
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