柳家小はんのシルエット 2018.1.11.梅田寄席
柳家小はん師匠の高座へ足を運ぶ。
昭和16年生まれ、御年76歳。寄席の香盤に並ぶのは年に数回。時間が合わず高座に触れる機会が遠のいていた。二年前の夏、新宿末廣亭にて小はん師匠の「二人旅」を聴く。道中二人が立ち寄り、酒をもとめる茶屋の婆さんが目の前に浮かび上がり、衝撃を受けた。高座の居ずまいが何とも言えず、淡々としているのにソリッド、愛想はないが、内なるをかしみが感ぜられ、その居ずまいの在りのままが脳裏に染み渡る。余計なものが一切なく、芸だけがそこにあった。「誰だ、この師匠は」。そこからずっと気になる存在であり続けた。
小はん師匠は足立出身。地域の梅田寄席にほぼ毎月、出演していることを知る。
五十人ほど、杖をつく地域の年寄りに付き添いの娘、または嫁が多い組み合わせか、いっぱいになった会場。足が悪い年寄りは座布団でなく、囲むように用意された椅子に座る。お互いの元気を確認するのが月例のような、和やかな空気が流れる。もちろん、下町の年始の賑やかな挨拶に隠れるが単身者も多い。
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師匠登場。桜紫の着物に襟はうぐいす色。
想起したのは金沢・前田家奥方御殿「成巽閣」の群青の間。武家の屋敷にして紫・群青・鉄砂の壁、天井が鮮やかなアバンギャルドな空間。師匠の身体にも、年輪と粋とアバンギャルドとが融合した美があった。金沢の美ならぬ、足立の美。江戸っ子気質とは何か、眼前に学ぶ。緋毛氈でおおわれた高座、段が二段ある。足元がおぼつかず老齢は隠せず、孫の気持ちにもなる。
一席はくしくも「二人旅」。寄席で聴いたときより尺を長く聴かせてくれた。
しっかりした口調、淡々とした語り口、さっぱりしているが、おっとりもしていて丁寧。心地いい。愛想やくすぐりはない。だがずっと聴いていられるのではないかというほど、心地いい。
強い癖や灰汁がなく、客にこびてもいないが、自分を大きく見せるような大看板のような圧もない。ひょうひょうとした喜劇人ぶるようなところもない。笑いをとるとか、そんな問題でもない。噺家なのに寡黙さを感じさせ、「無駄なことはいいなさんな」を地でいく実直さも感ぜられる。淡々として、それでいて、をかしみがにじみ出ている。
芸に向き合っている姿。そこからくる敬愛。
作為のない落語。そこからくる安心。
無心の高座。そこから感ぜられる芸。
小はん師匠の高座、得も言われる味わいであった。
もう一席は時節柄、「二番煎じ」。寒い夜空の下、火の用心の見回り組をいいつけられ、番屋に集まった長屋の住人たちの酒盛り。そこにやってきたお役人。ゆったりとおっとりとした調子が、この噺のをかしみを増していた。
何より、貌がいい。この相貌を観に来たい、そう思わせる貌である。
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「相撲取りがいちばん気にすることは何か、皆さん、知ってます?いちばん気にするのは実はシルエットなんですって」。
もう一人、若手真打の林家たけ平が「小田原相撲」をやった。林家正蔵の弟子で、この人の高座は明るく伸びやかで、枕も自由で脱線も自由だが、話の本筋への回収の仕方がうまい。陽気な高座が講談師を思わせる落語家。
先日、昭和歌謡のイベント司会で一緒になったという伝説の巨乳・五月みどりのおっぱいのでかさから、相撲取りのおっぱいの噺に移り、そんな噺の下りがあった。
小はん師匠の高座、果たして何がいいのか、ずっと反芻していた。ヒントは近くにあった。そうか、シルエット。小はん師匠のシルエット、私はその実存にえも言われる感慨を持っているのだ。
下駄をゆっくりと前へ出し、会場に入る外套を羽織った着物姿の師匠のうしろ姿。
高座でかくしゃくと、やや猫背ながら、しっかりした語り口の無心の居ずまい。
我思う。芸とはつまるところ、その人のシルエットなのかもしれない。
実存(身体)とシルエット(芸)。
私は柳家小はんのシルエットが好きだ。
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