老舗甘味処・人形町「初音」の女将
担当している月刊誌『歴史街道』の老舗連載「女子高生女優・北村優衣がゆく!老舗の味と歴史を体験リポート」。
第八回は、東京・人形町の天保八年(一八三七年)創業の甘味処「初音」を取材。
水天宮、明治座と指呼の距離。江戸時代、人形浄瑠璃などの芝居小屋が連なったことに名が由来する人形町。もとは、浅草寺裏に移転する前に吉原遊郭が置かれた地。移転後も浜町新道と呼ばれ、粋な黒塀見越しの松、妾宅に間抜けな泥棒が入る落語「転宅」の舞台でもある。江戸後期より鈴本亭、人形町末廣ら定席寄席が賑わいをみせた江戸の商業芸楽地。
「あたしゃあねぇ」。気風がいい。歯切れがいい。
七代目女将は御年八十五歳。とうてい見えない。浅草大衆演芸の浅香光代か、浅草東洋館の内海桂子か、初音の女将か。
江戸っ子気質の生き証人。シャキッと店頭に立ち、客を出迎え、店を切り盛りする。現役だ。
落語の世界では江戸っ子は愛想が良くて歯切れがいいが気が短いと決まっている。ほどよい緊張感を感じながらも懐に飛び込む。話が弾む。
破顔一笑。こんな気持ちのいい笑顔、できるだろうか。
老舗だが敷居の高いようなところは微塵もない。昔も今も、普通に立ち寄れる、それが甘味処というかのように自然体。大正モダンな店内。店の奥には茶釜がある。茶釜で沸かした湯で入れる茶がまたうまい。
ここらは関東大震災、東京大空襲の中心被災地でもある。
私の父は戦前、祖母、祖父と本所界隈に住んでいた。戦中は祖父は戦地。戦況が悪くなると幼子の父は祖母に連れられ、福島の須賀川に疎開した。
戦後は焼け野原に戻り、浜町公園辺りの隅田川(大川)の土手にバラック小屋を建てた。父は久松小学校に通った。
私が今、取材している場所は、まさにそこであった。一昨年の祖母の葬儀には、今も深川に住む高齢の親戚が家族に付き添われ、遠路、東京都下の葬儀場まで駆けつけてくれた。
何十年ぶりに再会し、焼け野原当時の話を棺の前で父、叔父と語らう一夜、今も忘れない。
「私の祖母は戦後、隅田川の花火大会でキャンディー売りをしたそうです。昔は打ち上げ場所は浅草ではなく、両国橋のこちら側だったんですよね」
女優の入り待ち時間、そんな話をすると女将は、昔を思い出すように話してくれた。
「あっ、そう。ついこないだまで行商だってこの通りに来ていたのにねぇ。なんだか風情がなくなっちゃってねぇ。商店会も小さくなっちゃって、昔を知る商店も少なくなってねぇ」
深い話をするでもないが、他愛もない一言、二言がうれしかった。
女将の気風は、この先、この地で受け継がれるのだろうか。
風合いのよい普段使いの茶釜が、ともし火に感じた。
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